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宿業とは一切衆生の罪業の歴史 [『歎異抄』を聞く(その79)]

(5)宿業とは一切衆生の罪業の歴史

 光太郎が「歴史のなかで育まれてきた」と感じ、その歴史と一体となっている自分を感じたとき、その歴史とは「聖なる歴史」でしょう。それは「天皇の歴史」、万世一系の天皇により支えられてきた民族のうるわしい歴史に他なりません。そこでは汚らわしいこと、醜いことがすべて天皇の名のもとに聖化されています。その「聖なる歴史」がいま危機に立たされている、だから「天皇あやうし」、「陛下をまもろう」となるのです。
 しかし宿業とは罪業の歴史です。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」。これが宿業の自覚です。
 この善導のことばで「自身」とあるのは、もちろんひとり一人の自身であり、善導自身でもありますが、同時に一切の有情です。一切の有情が曠劫よりこのかた積み重ねてきた罪業の歴史を自分自身が受けとめていると読むべきです。機の深信と言いますと、個人的な自覚のように受け取られますが、宿業の自覚となりますと、もはや個人のレベルを突き抜けて、一切衆生の罪業を自身に感じるということです。
 親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言うことができるのは、一切衆生が曠劫より積み重ねてきた罪業を自分一身に受けとめているからです。自分が一切衆生の宿業の歴史のなかにあると思うからこそ、弥陀の本願の歴史のなかにあると思えるのです。宿業の自覚と本願の自覚は一枚の紙の表と裏の関係にあるということです。
 よきこともあしきこともみな宿業によるという思いは、自分がいまここにあるのは本願によるという思いに他ならず、だからこそそれが順境であっても、それにおごらず、たとえ逆境にあっても、それに動ずることなく、宿業のままに安心して生きていくことができるのです。それは歴史と一体となったという思いのなかで「私の頭脳はランビキにかけられ」るのとはまったく異なり、静かな落ち着いた境地です。

タグ:親鸞を読む
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