SSブログ
『歎異抄』を聞く(その80) ブログトップ

よしあしといふこと [『歎異抄』を聞く(その80)]

(6)よしあしといふこと

 さて、「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」の後、「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もをよぶことなき」と続きます。これは第1章に「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」とあったのとまったく軌を一にします。
 人生において、順境に恵まれるか、逆境にさらされるかに大きく左右されるとともに(そこで神祇を祀ります)、善をなすことができるか、逆に悪に手を染めることになるかによってもまた激しく揺さぶられます(そこで自力作善につとめます)。しかし念仏の生活をしていれば、どんな境遇におかれようと静かに本願を喜ぶことができるように、善をなそうが悪をなそうが、そのことで動じることなく安心して生きていけるというのです。
 「善か悪か」という問題が、生きていく上でいかに大きな力をもっているかは日々痛感させられることですが、そのことで思いますのは「後序」にある次のことばです。「まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまうしあへり」。「よしあしといふことをのみ」言いあって生きているということは、「わがちから」により「わがはからい」で人生を切り拓いていると思っているということです。
 しかし、「聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」。なぜ存知しないかといいますと、「如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめ」と容赦のないことばが続きます。
 「これはよし」、「これはわろし」と思ったことがほんとうにそうであるかどうして分かるか、と言うのです。そしてさらに決定的なことが言われます、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と。善だ悪だと言っているが、「みなもてそらごと、たわごと」であるというのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その80) ブログトップ