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そらごと、たわごと [『歎異抄』を聞く(その81)]

(7)そらごと、たわごと

 あるときカルチャーセンターの受講生の方からこんな疑問がだされました、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごとだとしますと、あなたがここで話されていることもそらごと、たわごとということになりませんか」と。これは「嘘つきのパラドクス」とよばれる問題です。あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言うとしますと、そう言っているクレタ人も嘘つきですから、「クレタ人は嘘つきだ」も嘘であることとなり、何が何やらわけが分からなくなります。
 このパラドクスから逃れるためには、「クレタ人は嘘つきだ」という言明だけは嘘ではないとするほかありません。同じように、「みなもてそらごと、たわごと」という言明だけは真実であるか、さもなければこの言明は何も言っていない、つまりナンセンスということになります。そして、もし「みなもてそらごと、たわごと」が真実だとしますと、この真実は「みなもてそらごと、たわごと」の世界とは別のところからやってきたということになります。親鸞が自分からそう言っているのではなく、どこかから親鸞にこの真実がやってきて、親鸞の口をついて出たと考えるしかありません。
 ぼくらはみずから「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」と知ることはできないということです。そう知った途端、それもまた「そらごと、たわごと」ですから。それはみずから知るのではなく、どこかから知らしめられるのです。「ぼくらの言っていること、やっていることは、すべてそらごと、たわごとである」とみずから言うのではなく、「おまえたちの言っていること、やっていることは、すべてそらごと、たわごとである」とどこかから聞かされるのです、そしてそれが身に沁みる。これが宿業の自覚です。
 自覚ということばには「みずから知る」というニュアンスがつきまといますから、目覚めと言った方がいいかもしれません。前にも言いましたように、ぼくらは自分で目覚めようとして目覚めることはできません。あるときはっと目覚めるのです、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」であると。

タグ:親鸞を読む
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