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お恥ずかしい [『歎異抄』を聞く(その82)]

(8)お恥ずかしい

 「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」ということに目覚めるとどうなるか。何をやっても、何を言っても、所詮そらごと、たわごとだとすれば、もう真面目に生きることはないじゃないか、と自暴自棄になるでしょうか。
 そうはならないのです。みな「そらごと、たわごと」と気づくことで、変な言い回しに聞こえるかもしれませんが、「そらごと、たわごと」が「そらごと、たわごと」のままで「まこと」になるのです。みな「そらごと、たわごと」だと気づかないから「そらごと、たわごと」ですが、みな「そらごと、たわごと」だと気づかされますと、「そらごと、たわごと」がそのままで「まこと」となり、「そらごと、たわごと」の世界をおそれずに生きていくことができるようになるのです。
 ある方から「みなそらごと、たわごとだとしますと、あなたがここで話されていることもそらごと、たわごとということにはなりませんか」と突っ込まれたとき、ぼくは自分自身をかえりみて恥ずかしくなりました。ぼくはカルチャーセンターで親鸞について、ああだ、こうだと人前でしゃべっているのですが、「おまえは何をえらそうにしゃべっているのか、所詮そらごと、たわごとではないのか」というナイフを突きつけられたのです。ぼくが言っている内容が「そらごと、たわごと」ということではありません(それもそうかもしれませんが、それよりも)、人前でえらそうにしゃべるということ自体が「そらごと、たわごと」ではないかということです。
 自分が親鸞について知っていること、考えていることをただ人に伝えたいだけというような殊勝な顔をしているが、その実、「オレはこんなに深く親鸞について考えているんだ」と人に自慢したいだけじゃないか、「どうだ、たいしたものだろう」と見栄をはっているだけではないのか、というナイフにぼくは赤面したのです。間違いなくそのような見栄、名利が自分のなかにあることを見せつけられて、「みなもてそらごと、たわごと」と思い知らされたのですが、不思議なことに、「みなもてそらごと、たわごと」という真実に気づいて深い安らぎを感じたのです。もしその真実に気づいていませんと、ぼくはその方に猛烈に反発していたでしょう。でもそのときぼくは「お恥ずかしいことで」と首を垂れるのみでした。不思議な安らぎを感じながら。

タグ:親鸞を読む
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