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行にあらず [『歎異抄』を聞く(その84)]

(10)行にあらず

 念仏とは名号を口に称えることとしますと、それは、どう言い逃れしようとも、所詮われらが「行う」ことですから、「行にあらず」が咽喉を通ってくれません。そこでひとまず「名号を口に称える」ことは横において、南無阿弥陀仏という名号そのものを考えますと、親鸞はこれを弥陀招喚の声であると教えてくれます。
 大部な『教行信証』のハイライトはどこにあるかといわれたら、「帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻)、「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふ勅命なり」(信巻)を上げたいと思います。前者は南無阿弥陀仏の南無とは帰命だとした上で、帰命とは弥陀招喚の勅命だと言い、後者は第十八願の欲生について同じことを言っているのです。要するに、われらが「帰りたい」と願うより前に、弥陀から「帰っておいで」と呼ぶ声が届いているということを教えてくれているのです。
 「帰っておいで」と呼ぶ声が聞こえる、これがすべてのはじまりです。
 「ただいま」と「おかえり」という挨拶を考えてみますと、普通は「ただいま」が先で「おかえり」がその返答だと思います。子どもが元気よく「ただいま」と帰ってきて、お母さんが「おかえり」と迎える。でもよく考えますと、子どもが「ただいま」と帰っていくことができるのは、それに先立ってお母さんの「おはようおかえり」の声が聞こえているからでしょう。それは耳に聞こえるのではありません、いつでもこころのなかでその声がしているからこそ「ただいま」と帰っていけるのです。その声がしていない不幸な子どもは「ただいま」と帰っていく家がありません。
 やはり「帰っておいで」の声が聞こえることがすべてのはじまりです。その声が身に沁みて「帰りたい」という思いが起こる。それが「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」(第1章)です。

タグ:親鸞を読む
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