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欲生我国と願生彼国 [『歎異抄』を聞く(その85)]

(11)欲生我国と願生彼国

 第十八願は「十方の衆生、心をいたし信楽して(至心信楽)わがくににむまれんとおもふて(欲生我国)、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」で、これは言うまでもなく法蔵菩薩の誓いのことばです。ここに出てくる「わがくににむまれんとおもふて(欲生我国)」をかみ砕いて言いますと「帰っておいで」となります。法蔵が十方の衆生に「帰っておいで」と呼びかけているのです。そしてその十八願の成就文には「かのくにに生ぜんと願ずれば(願生彼国)、すなはち往生をえ、不退転に住す」とあります。これは釈迦が本願の成就したことを述べていることばで、ここにある「かのくにに生ぜんと願ずれば(願生彼国)」をかみ砕けば「帰りたい」となります。
 ここでも、「帰っておいで」と呼びかけられ、そして「帰りたい」という思いが生まれることを確認することができます。
 南無阿弥陀仏とは、まずもって「帰っておいで」という呼び声であることを見てきました。そのときこころに「帰りたい」という思いが湧き上がるのですが、その思いに喜びを伴うことは言うまでもありません。経に「信楽」とあり、また「信心歓喜」とありますように、「帰っておいで」の声に気づくこと(これが信心に他なりません)は大いなる楽しみであり、望外の喜びです。そしてその喜びのこころはそのまま内にとどまるはずはありません、おのずと外にあふれ出ていくでしょう、「あゝ、ありがたい」という感謝の念として。これがわれらの称える南無阿弥陀仏です。向こうからやってくる南無阿弥陀仏の声に、こだまのように南無阿弥陀仏と応える、これが念仏です。
 京都の六波羅蜜寺に行きますと、遊行僧・空也の像があります。見過ごしてしまうほど小ぶりの像ですが、よく見ますと、空也上人の口から小さな阿弥陀仏が六体でています。これは空也が南無阿弥陀仏を称えている様子を造形しているのですが、空也が南無阿弥陀仏を称えているというよりも、南無阿弥陀仏そのものが空也の口を通して出てきていることが見事にとらえられています。この姿のどこにも「わがはからひ」のはいる余地はなく、念仏は「行にあらず」ということがよく分かります。

タグ:親鸞を読む
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