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『歎異抄』を聞く(その86) ブログトップ

即是其行 [『歎異抄』を聞く(その86)]

(12)即是其行(そくぜごぎょう)

 少し前のところで『教行信証』の核心は「帰命は本願招喚の勅命なり」という一文にあると言いましたが、このことばは親鸞が善導の有名な六字釈(南無阿弥陀仏の六字の注釈)について述べているなかにでてきます。「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり(即是其行)。この義をもてのゆへに、かならず往生をう」。これが善導の六字釈ですが、このなかの「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり(即是其行)」の意味について、親鸞はこう言います、「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」と。
 善導の謎のことばを読み解こうとする親鸞のことばもなお謎めいています。善導は「阿弥陀仏そのものが行である」と言っているのですが、親鸞はそれを「阿弥陀仏とはその本願以外の何ものでもなく、そして本願とは南無阿弥陀仏以外の何ものでもない」と言い換えているのです。つまり、阿弥陀仏がおわすということは、本願があるということに他ならず、そして本願があるということは南無阿弥陀仏(「帰っておいで」)の声がするということに他ならないと。行というのは、阿弥陀仏がおわすこと、すなわち南無阿弥陀仏の声がすることだというのです。
 ぼくらは念仏の行と聞きますと、もちろんぼくら自身が念仏することだと思います。でも親鸞は本願・名号そのものが行であるというのです。
 曽我量深氏はそのことを「念仏は能行ではなく所行だ」と言われます。能・所は浄土真宗の本にしばしば登場することばで、能は能動、所は受動、あるいは、能は主体、所は客体というようなことです。ですから能行というのは、ぼくらが能動的・主体的に行ずるということで、所行は、ぼくらは受動的・客体的に行ぜられるという意味になります。ですから、念仏は能行ではなく所行だというのは、ぼくらがどれだけ称えても、それはぼくらが行ずるものではなく、行ぜられるものであるということです。

タグ:親鸞を読む
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