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南無阿弥陀仏の歴史 [『歎異抄』を聞く(その87)]

(13)南無阿弥陀仏の歴史

 しかし念仏は行ずる(能行)のではなく行ぜられる(所行)というのはどういうことでしょう。南無阿弥陀仏の歴史を思い浮かべてみましょう。十劫のむかしに本願が成就して、ここに南無阿弥陀仏の歴史がはじまります。阿弥陀仏が南無阿弥陀仏(「帰っておいで」)の声となって生きとし生けるものたちに届けられ、それが聞こえた衆生から、またこだまのように南無阿弥陀仏と応える声がする。こんなふうにして南無阿弥陀仏の悠久の歴史が刻まれてきたのです。そのなかでぼくらがどれだけ南無阿弥陀仏を称えようと、それはぼくらが行じているのではなく、あくまで南無阿弥陀仏が行ぜられているだけです。能行ではなく所行です。
 こう言えばいいでしょうか。となえてもとなえてもそれで南無阿弥陀仏の歴史に何ひとつつけ加わるわけではないと。
 そもそも南無阿弥陀仏の歴史は悠久の歴史つまり無限です(アミターユスとは「無限のいのち」ということです)。さて、無限に何を加えても、それでもとの無限がより大きくなることはありません。もしつけ加わった分だけ大きくなったとしたら、それは無限ではなく有限ということです。孫悟空が「オレさまの力をもってしたら世界の果てまでだって一っ跳び」とやってみたら、あにはからんや、世界の果てと思ったところがお釈迦さまの手の平の上だったというお話は、無限のなかでは、ぼくらのなすことなど無であるということを教えてくれます。
 すべては南無阿弥陀仏のなかであり、ぼくらが南無弥陀仏と称えると思っていても、その実、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を称えているにすぎません。一遍の「となうれば われもほとけもなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」は、禅的なくさみがあるとはいえ、そのあたりの消息をうまくとらえているのではないでしょうか。ぼくらが南無阿弥陀仏を称えているのではなく、南無阿弥陀仏がぼくらに南無阿弥陀仏を称えさせているということです。ぼくらは南無阿弥陀仏のなかで生かされているのです。

               (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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