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親鸞もこの不審ありつるに [『歎異抄』を聞く(その89)]

(2)親鸞もこの不審ありつるに

 これまでは親鸞の一方的な語りでしたが、この章は対話形式になっていますので一段と味わい深いのではないでしょうか。そしてここにはじめて著者・唯円が名乗りを上げています。唯円の問いかけに親鸞が答えるという形式で書き進められていくのですが、この文章を書けるのは対話の当事者しかいませんから、この書は唯円の手になると考える他ありません。
 さてその唯円が、おそらくひやひやしながら、親鸞に「まうしいれた」ことが二つあります。ひとつは「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと」で、もうひとつは「いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬ」ことです。これはどうしたことでしょうと、こんなことを親鸞聖人に尋ねてもいいだろうか、「この不信心ものが!」と叱られるのではないかと内心おそれながら、でも思い切って聞いてみた。
 ところが親鸞からは思いもかけないことばが返ってきたのです、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。「そうですか、あなたもですか。実はわたしも同じように思っていたのですよ」というのです。そういえば、『教行信証』「信巻」に印象的なことばがあります、「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚(じょうじゅ、正定聚のこと)のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」と。
 「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふ」が、「定聚のかずにいることをよろこばず」に、「いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬ」が、「真証の証にちかづくことをたのしまず」にぴったり重なります。「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえた」(『教行信証』序)のに、どうしたことか、さほど喜びのこころがわいてこないし、またいつ死んでもいいという気持ちにもなれない。お恥ずかしいことだ、と思っていたと言うのです。

タグ:親鸞を読む
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