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踊躍歓喜のこころ [『歎異抄』を聞く(その90)]

(3)踊躍歓喜のこころ

 この章を読むたびに、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」ということばを聞いたときの唯円のこころの内を思い浮かべます。普通なら、そんなことでどうするのだ、と一喝されるところなのに、親鸞という人は、自分もそうなのだ、それでいいのだ、と言うのです。唯円はこころの底から「いい師匠に出あえた」と思ったに違いありません。だからこそ、何年経ってもその時のことが鮮明に思い出され、親鸞のことばも胸にしっかり刻み付けられたのです。
 先回の終わりのところで「となうれば われもほとけもなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という一遍のうたを紹介し、われが南無阿弥陀仏と称えているのではなく、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を称えているという消息がよくとらえられていると言いました。これは親鸞の言う「信楽開発の時刻の極促」をうたっていて、そのときには踊躍歓喜のこころが湧き上がることでしょう。そして一遍の場合、その踊躍歓喜は、みんなが輪になって念仏しながら踊るというかたちをとります。これが時宗の踊り念仏で、そこには一種の恍惚があります。
 しかし親鸞の念仏は決して恍惚の念仏ではありません。もちろん「信楽開発の時刻の極促」は歓喜の瞬間です。でもそれは己れの内なる「愛欲の広海」、「名利の大山」に覚醒するときでもあります。法の喜びは機の悲しみを伴っているのです。ここに一遍の「われもほとけもなかりけり」の境地(これは禅の境地でしょう)との違いがあります。仏と凡夫は一如(仏凡一如)でありながら、しかし同時に仏と凡夫の間には無限の隔たりがある。これが親鸞の境地です。
 『浄土和讃』に「道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり ひとたび光照かぶるもの 業垢をのぞき解脱をう」とあります。ここで道光というのは弥陀の光明のことですが、明朗の朗は「ほがらか」で、これには月がついています。弥陀の光明は日の光ではなく月の光です。真夏の太陽がギラギラと輝く光ではなく、夜、中天の満月から降り注ぐしっとり落ちついた光ということです。

タグ:親鸞を読む
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