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いよいよ往生は一定 [『歎異抄』を聞く(その91)]

(4)いよいよ往生は一定

 親鸞は「よくよく案じみれば、天にをどり、地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり」と言います。ここにも人の意表を突くもの言いがあります(考えてみますと、これまでの章のすべてが世の常識の裏を突き、「えっ」と思わせる文言に満ち満ちていましたが、そこに『歎異抄』の類いまれな魅力があります)。普通には信心歓喜して往生が定まると言われるのに、喜びがないから、いよいよ往生が一定というのは、どうにも間尺にあいません。
 この「よくよく案じみれば」と同じ言い回しが後序にも出てきます、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と。そこでここでも「よくよく案じみれば」の前に「弥陀の五劫思惟の願を」をつけ加えてみましょう。そうしますと、ちょっと考えたところでは、喜びのこころがないということは信心がないように思えるが、よくよく弥陀の本願というものを噛みしめてみると、喜べないからこそ往生が確かだと分かるのだということになります。
 なぜそんなことが分かるのかと言いますと、喜ぶべきことを喜ばせないようにしているのは煩悩であり、弥陀の本願はそのような煩悩を具足している凡夫のためにあるのだから、ということです。煩悩があるからこそ往生できるという論理ですが、これはしかしながら、とんでもなく理不尽に思えます。この感覚は第3章の「悪人正機」に感じるのと同じものです。「悪人でも」ではなく「悪人こそ」救われるなどと言われますと、生理的に反発したくなります、「そんなばかなことがあるか」と。
 どうしてこんな理不尽な言い分が出てくるのか。これはすでに(第4回)くわしく検討しましたが、改めてそれをひと言でいいますと、法の深信はかならず機の深信を伴うということです。「阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」という声が聞こえるとき、かならず同時に、なんじは「現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」の声が聞こえているということ、これです。

タグ:親鸞を読む
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