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死なんずるやらんとこころぼそく [『歎異抄』を聞く(その93)]

(6)死なんずるやらんとこころぼそく

 唯円の二つ目の不審、念仏していても「いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬ」のはどういうことでしょう、という問いに答えています。「いそぎ浄土へまいりたきこころ」というのは、はやく死んで浄土へ往きたいということではなく、「いつ死んでもいい」と思うこころのことでしょう。念仏して往生が定まったというのに、「いつ死んでもいい」とは思えず、少しでも長く生きたいと思っている自分がいるということ、これを唯円は問題にしているのです。
 往生が定まったのだから嬉しくて仕方がないはずであり、また、往生が定まったら「いつ死んでもいい」と思えるようになるはずだ。ところが実際はちっとも嬉しいという気持ちは起こらず、「いつ死んでもいい」どころか、もっと長生きしたいと思っている。これはどうしたことだ、自分の信心・念仏には何か問題があるのではないか、ひとつ思い切って親鸞聖人に尋ねてみよう、というわけです。そうしたところ、親鸞答えていわく、わたしも「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」と。
 四苦とは生老病死ですが、何といってもやはり死が最大の問題でしょう。仏教は死の問題を解決するためにあると言っていい。ですから仏教徒が、ましてやお坊さんが「死ぬのは怖い」などと言うのは恥ずかしいことです。良寛の「病むときは病むがよくそうろう、死ぬときは死ぬがよくそうろう」は禅僧として立派ですが、親鸞の「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」はいかにも格好が悪いと言わなければなりません。
 しかし、どうでしょう、ほんとうにこころの底から「死ぬときは死ぬがよくそうろう」と言えるでしょうか。ときには「いつ死んでもいい」という気持ちになることはあっても、「でも今日でなくていい」(佐野洋子)と付け加えたくなるのが正直なところではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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