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第10章本文 [『歎異抄』を聞く(その97)]

(10)第10章本文

 念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑにと、おほせさふらひき。
 そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まうさるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらふよし、つたへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。

 (現代語訳) 念仏にははからいのないことが肝心です。念仏はおしはかることも、ことばで説くことも、こころに思いみることもできないからです、とおっしゃいました。
 さて聖人がご在世のむかしに、おなじこころざしをもって、はるかな京まで足を運び、信心を一つにして未来の報土に思いを寄せた仲間たちは、一緒に聖人の教えをうけたまわることができましたが、その人たちについて念仏を申している数知れぬ老若の中に、聖人の仰せとは異なることをこの頃さまざまに言われているらしいとお聞きしております。それらの誤った考えの一つひとつを見てまいりましょう。

 この章が不思議な構造をしていることについてはすでにお話しました(第1回)。最初の一文はこれまでの「故親鸞聖人の御物語」の末尾にあたるものですが、それにつづく部分は、これからはじまる「上人のおほせにあらざる異義ども」への批判の序文となっていて、性質の異なる二つの部分が接合されています。どうしてこんな構造になったかについてはもう繰り返しません。
 ここでは「念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに」という一文に絞って検討したいと思います。

タグ:親鸞を読む
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