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はからい [『歎異抄』を聞く(その99)]

(12)はからい

 前に引きあいに出しました後序のことばをもう一度参照したいと思います。「まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまうしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか」。
 これでみますと、親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」と言っていますから、ただ本願・念仏についてだけではなく、「よろづのこと」について、われらの「はからい」は「みなもてそらごと、たわごと」だと言っていると思われます。ですから、普通の生活には「はからい」は不可欠だが、本願を信じ念仏をもうすことについてだけは「はからい」があってはならないというのではなく、何ごとについても「はからい」があってはならないとなります。
 さて、さて、これは容易ならざることです。よろづのことについて「はからい」がないというのはどういうことでしょう。
 まわり道のようですが、我執について考えてみましょう。釈迦は我執がすべての苦しみの因であることに気づきました。「これはわれである」、「これはわがものである」という思いにとらわれることから苦しみが生ずるのだと。さてそこから釈迦はどう説くのでしょう。仏教の一般的な解説書などを見ますと、「釈迦は苦しみの原因である我執を捨てよと教えられた」と書いてあることが多いのですが、釈迦はほんとうにそう説いたのでしょうか。もしそうでしたら、ぼくはもう釈迦についていけない。我執を捨てることなど金輪際できないからです。

タグ:親鸞を読む
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