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みなもてそらごと、たわごと [『歎異抄』を聞く(その100)]

(13)みなもてそらごと、たわごと

 無我とは「われを捨てよ」という教えではありません。そもそも、われを捨てるなどということはどういうことか理解できません。われを捨てよと言われる以上、われを捨てるのはわれ以外ではありませんが、われがわれを捨てるとはどういうことでしょう。このように言うことで何か意味のあることが言われているでしょうか。釈迦はこんな無意味なことを言っているのではありません。では何を言っているのか。「われはわれにとらわれている、そこからあらゆる苦しみが生じる」と言っているだけです。
 それに気づくだけでは何にもならないじゃないか、その上で、われへのとらわれをなくしてはじめて苦しみがなくなるのだから、と言われるかもしれません。でも、繰り返しですが、われへのとらわれをなくすことはできません、ただわれにとらわれていることに気づくだけです。でも、それを身にしみて思い知ることが、たいへんな作用をもたらすのです。われへのとらわれにブレーキの作用が働くのです。われにとらわれながら、「あゝ、またわれにとらわれている」と気づくことで、ブレーキを踏むことになるのです。それでわれへのとらわれがなくなるわけではありませんが、でもそれによる苦しみは目に見えて緩和されます。
 はからいも同じです。生きることは取りも直さずさまざまなはからいをすることに他なりませんが、よろづのはからいは「みなもてそらごと、たわごと」であるという気づきがありますと、「あゝ、またそらごと、たわごとを」と思い知ることになり、はからいにブレーキが働くのです。しつこいようですが、それではからいがなくなるわけではありません。はからいがなくなるのはいのち終わるときです。でも、もうはからいにのめり込むことなく、これは「そらごと、たわごと」だと醒めた眼でみつめながら、はからうのです。
 なぜそんなことができるのかといいますと、そこに本願・念仏という「まこと」があるからです。そこに如来の「まこと」があるから、所詮「そらごと、たわごと」と思いながら、安心してはからうことができるのです。

               (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
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