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虚仮のこころ [『歎異抄』を聞く(その104)]

(4)虚仮のこころ

 いかがでしょう、カント倫理学には人間の理性に対する全幅の信頼が見られます。われらは理性の命令に従って善をなしうると言うのです。そしてそこに人間としての尊厳があると。しかし親鸞は言うのです、よきこともわるきことも、みな宿業のもよおしによると。どこからこのようなものの見方が生まれてくるのかを考えるにあたって、突然ですが善導のことば「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(ふとくげげんけんぜんしょうじんしそうないえこけ)」を取り上げたいと思います。
 これは普通に読みますと、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことをえざれ」となります。外に善人づらしながら、内に悪の思いをもつなかれ、ということです。このことばは善導が、『観経』に「往生するには、至誠心、深信、回向発願心の三心をもたねばならない」とあるのを注釈するなかで、至誠心(しじょうしん、まことのこころ)について述べているものです。善導を重んじた法然はもちろんこれを『選択本願念仏集』に引用していますが、その読みは上に示したものだったでしょう。
 ところが親鸞はこう読むのです、「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と。これは少々無理筋の読み方と言わざるをえませんが、親鸞としてはこう読むしかないのです。そしてそこに親鸞の感性がはっきりあらわれています。ふたつの読みの違いは明らかでしょう。前者は虚仮のこころを捨てて真実のこころになれると思っているのに対して、後者はどう踏ん張っても真実のこころになどなれるわけがないと思っています。われらは骨の髄まで虚仮のこころで満たされていると。
 カントのように、悪人であっても、理性の命令にしたがって善をなしうる、と見るか、それとも親鸞のように、われらは根っからの悪人であって、そこから抜け出ることは金輪際ないと見るか。

タグ:親鸞を読む
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