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リゴリズム [『歎異抄』を聞く(その105)]

(5)リゴリズム

 カントに軍配を上げたい気持ちになります。われらに虚仮のこころがあるのはもちろんだが、でも理性の命令にしたがい「自己や他者を単に手段としてのみ扱うことなく、つねに同時に目的として扱う」こともできるではないか、そこにわれらの自由の証明があるのではないかと。しかし親鸞はそれに対してこう言うでしょう、たしかにわれらもよいことをすることはあるが、それは宿業のもよおしによるのであり、よいことをしようとしてするのではない。よいことをしようとするときは、すでにそこに虚仮が潜んでいる、と。
 理性の命令にしたがわなければならないからしたがうこと(これがカントによれば純粋に道徳的です)のどこに虚仮があるのかと言われるかもしれません。それこそ人間としての最高の尊厳ではないかと。しかし悪のにおいに敏感な親鸞は言うでしょう、理性の命令にしたがおうとするとき、そこに自尊の思いはないか。利己の思いをはなれて理性の命令にしたがおうとしている自分に酔ってはいないか。「どうだ、自分はたいしたものだろう」という驕りはないか、etc.
 カント倫理学はリゴリズムだと評されます。あまりに厳格であると。どんなに結果がよくても、その動機に少しでも不純なもの(理性の命令に反するもの)があれば、それは悪だというのですから。しかし悪の感覚で言えば、親鸞はそれに輪をかけて厳格です。「卯毛羊毛のさきにゐるちりばかり」の虚仮も見逃さないのですから。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と言ってはばからないのですから。
 さてしかし、ここから先が問題です。もし親鸞が言うように、われらには虚仮のこころしかなく、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」だとしますと、われらの思うこと、なすこと、何もかも虚しくならないでしょうか。何を思おうが、何をなそうが、「みなもてそらごと、たわごと」だとしたら、もうどうだっていいじゃないかとやけっぱちにならないでしょうか。これは繰り返し考えてきたことですが(第8回-8、第9回-13)、別の角度から改めて検討してみましょう。

タグ:親鸞を読む
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