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流れに身をまかせて [『歎異抄』を聞く(その106)]

(6)流れに身をまかせて

 「われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおも」うのは「そらごと」であり、よきこともあしきこともみな宿業による、というのが親鸞の立ち位置です。ここから出てくるのは、どうジタバタしても「みなもてそらごと」なのだから、成り行きにまかせてじっと静観していよう、という姿勢でしょうか。唯円も第13章の後の方で「されば、よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ」と言っていますが、「業報にさしまかせる」とは、宿業に身をゆだねるということでしょう。
 前に出てきました「義なきを義とす」(第10章)も、はからいのないことが大事だということですから、ただ流れに身をまかせるのがよいということになるのでしょうか。
 さてしかし、順境にあるときは、そのまま成り行きにまかせるのは問題ありませんが、いったん逆境に陥りますと、じっと静観しているわけにはいかないでしょう。何とかしなければならないとジタバタすることになります。身体の調子が悪くなったとき、仕事がうまくいかなくなったとき、家族のあいだがギクシャクしてきたときなど、どうすればいいだろうと、ない智慧を絞ることになります。下手の考え休むに似たりと思っても、何も考えず、何も手を打たないわけにはいきません。逆境にそのまま身をゆだねるというのはできそうにありません。
 清沢満之はおもしろいことを言っています(「精神主義と他力」)。「大地震轟し来りて家屋将に顛覆せんとするとき、走り出ずべきか、走り出ず可からざるか」と問います。そしてこう答えます、どちらが災難を避けられるかは「吾人の知見し得る所にあら」ず。「知見し得ざることに対して狂乱するは無用」であるから、「一(ひとえ)に無限大悲の指令に待ち、若し走り出でんとするの念起こらば、驀直に(まくじきに、まっしぐらに)走進し、若し走り出でんとするの念起らずば、泰然として安座すべきなり」と。では「他力の指令が判然たらざる場合は」とさらに問い、そのときは「勉めて虚心平気に指令を待ちつつ満足すべきなり」と答えます。

タグ:親鸞を読む
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