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宿業の自覚は本願の自覚 [『歎異抄』を聞く(その108)]

(8)宿業の自覚は本願の自覚

 「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と思い知らされたということは、取りも直さず、ひとつの「まこと」が与えられたということです。われらのなかに「まこと」などひとつとしてないと思い知らされたとき、何と、そこに「まこと」が与えられているのです。それが宿業に目覚めるということに他なりません。いままでは、わがこころのよくてよきことをすると思い、わがこころのわるくてわるきことをしていると思っていたのですが、あるときふと目覚め、それはみな夢の中のことであったと気づく。そしていまや澄んだ意識の中で、よきこともあしきこともみな宿業のもよおしであると思い知るのです。
 この宿業に目覚めるということは、みずからの力でできることではありません。向こうから「うながし」があって、ふと目覚めるのです。その「うながし」を親鸞は「本願招喚の勅命」と言っているのです。「帰っておいで」の声です。
 夢から目覚めるということは、ひとつは「いままでは夢のなかにいた」と気づくことであり、同時に「いまは夢から醒めた」と気づくことです。いままでは「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」の世界にいながら、そんな世界にいるとは思いもしなかったのですが、いまは「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」とはっきり気づいています。そう気づかせてくれたのが「本願招喚の勅命」だとしますと、ぼくらは宿業に気づくことを通じてはじめて本願に気づくのだということが分かります。
 宿業の自覚は本願の自覚とひとつです。
 これを善導は深信に二種ありと言っているのです、「一には決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」(『観経疏』「散善義」)と。前者が「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と信じることであり、後者が「念仏のみぞまこと」と信じることです。

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