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歴史ということ [『歎異抄』を聞く(その110)]

(10)歴史ということ

 歴史ということを考えてみたいと思います。宿業というのは「過去の行い」ということですから、それを個人の行いだけでなく、あらゆる人々の行いにまで広げてとらえれば歴史とつながってきます。前に韓国・慶州の仏国寺を訪ねたときのことをお話しました。韓国人ガイドから「このお寺に石造の建築物しか残っていないのは、お国の豊臣秀吉がわが国を侵略したとき、このお寺に火を放ったからです」という説明をうけた瞬間、ぼくの中に緊張が走り、何ともいえない恥ずかしさを感じたという話です。なぜ秀吉がしたことにぼくが恥ずかしさを感じるのか。ここには宿業の感覚があります。それを歴史意識といってもいいでしょう。ひとつの宿業、ひとつの歴史のなかにあるという感覚です。
 ところで歴史の審判が下るという言い方があります。何が正しくて何が誤っているかは歴史が判定してくれるということです。個人が「これはよし、あれはわろし」と言いあっても埒が明かず、結局は歴史の審判を待つしかないというのは否定できない力があるような気がしますが、さてしかしこれもどちらにでも転んでもおかしくない曖昧さがあります。あることが歴史によって肯われたと受け止めることもできますが、歴史によって覆されたと見ることもできる。それぞれの立場で歴史を味方につけることができるのです。
 いずれにしても、自分たちがいまここにいるのは、宿業=歴史のなせるわざであるという感覚は共通しています。これが宿業の感覚であり歴史意識とよばれるものであることはまちがいありませんが、問題は宿業=歴史に身をゆだねるというのはどういうことかということです。ぼくの属する読書会で天皇の戦争責任が議論になったことがあります。そのときある人が「天皇制は、紆余曲折はあったとはいえ、千年を優に越える歴史をもっている。これは世界でも例のないことだ」と言い、それを根拠として「天皇制をなくすなどという選択肢はないと思う」と言われたことがあります。この考え方は広く国民に浸透しているような気がします。さて、天皇制は言ってみれば、われらの宿業であり、日本の歴史そのものと言っていいから、それに安心して身をゆだねればいい、ということになるのでしょうか。それが親鸞の言う宿業の自覚ということでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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