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安心して「そらごと、たわごと」を [『歎異抄』を聞く(その112)]

(12)安心して「そらごと、たわごと」を

 話が現実の社会問題からそれてしまったようです、原子力発電の問題に戻りましょう。よきこともあしきことも宿業のもよおしによるのだから、原発問題について「これはよし、あれはわろし」とはからうのは意味がないということになるのでしょうか。
 先に清沢満之が地震に襲われたときを例に他力について述べているのを見ましたが(6)、すべては宿業のもよおしによるとは言え、何もせずに茫然としているのではなく、走り出るか、その場にとどまるかをとっさに判断して行動せざるをえません。それは紛れもなく「これはよし、あれはわろし」とはからっているということです。が、それがみな同時に宿業のもよおしによるのです。自分でとっさに判断しながら、同時にそれを宿業のもよおしと感じている。
 同じように、原子力発電をどうするかという問題に直面したとき、そのときの自分のもてる力をあげて判断をせざるをえません。どちらとも判断がつかないことももちろんありますが、それは判断を放棄しているのではないでしょう。なかには判断から逃げ回る人もいるでしょうが、それも判断しないと自分で決めているのです。さてしかし、それもこれもみな宿業のもよおしによるのだと親鸞は言うのです。みな宿業によると思いながら、でも必死に判断せざるをえない。一生懸命に判断しながら、同時に、これはみな宿業によるのだと思うのです。
 「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」と思いながら、その「そらごと、たわごと」に一生懸命になる。
 「そらごと、たわごと」にどうして必死になれるのかと言われるかもしれませんが、その答えは「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということばが与えてくれます。念仏というまことがあるからこそ、「そらごと、たわごと」に一生懸命になれるのです。こうも言えるのではないでしょうか。本願のまことに出あえたからこそ、安心して「そらごと、たわごと」の世界を生きていくことができると。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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