SSブログ
『歎異抄』を聞く(その114) ブログトップ

親鸞一人がため [『歎異抄』を聞く(その114)]

(2)親鸞一人がため

 後序はかなり長い文で内容も多岐にわたっていますが、著者・唯円のもっとも言いたかったのは、「露命わづかに枯草の身にかかりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびとの御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしをもむきをも、まうしきかせまゐらせさふらへども、閉眼ののちは、さこそしどけなき(乱れてだらしない)ことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらひて」、「かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直(じき)に報土にむまれずして辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて、これをしるす」ということでしょう。唯円がどんな気持ちでこの書を残そうとしたかがよく伝わってきます。
 さて、最後にあたり是非ともご一緒に味わっておきたいのが、後序にでてくる「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」との「聖人のつねのおほせ」です。曽我量深氏は「この一句でご開山聖人は永遠に生きておられる。…この一句を伝えているだけでも『歎異抄』は不滅のものであるといえる」(『歎異抄聴記』)と言われますが、まったく同感です。そこでこの一句に込められた万感の思いを汲み取っていきたいと思います。
 この一節を読むとき、いつも頭に浮かぶのはキルケゴールというデンマークの孤独な哲学者のことです。親鸞とキルケゴールは、生きていた時代(13世紀と19世紀)も場所(日本とヨーロッパ)も、したがって取り巻く文化(仏教とキリスト教)もまったく異なるのですが、でももし二人が出会い、腹を割って話し合うことができたら、きっと「おゝ、君も同じことを考えていたか」と共鳴しあったに違いないと思うのです。ぼくが宗教というものに目を開かされたのは、この二人を通してでした。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その114) ブログトップ