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キルケゴール [『歎異抄』を聞く(その115)]

(3)キルケゴール

 キルケゴールのことばとしてよく知られているのが「主体性が真理である」というものです。その意味は、「他の誰でもないこの自分が、それによって生き、それによって死ぬことができる真理こそ、ほんものの真理だ」ということです。このことばは、当時のヨーロッパに君臨していたヘーゲル哲学に向かって投げつけられたものと言えます。ヘーゲルは世界のあらゆることがら(自然も社会も歴史もすべて)を絶対精神の弁証法的展開として解明する壮大な哲学体系を打ち立てたのですが、キルケゴールはそれをこんなふうに評しています、「なるほどヘーゲルはとてつもなく壮麗な宮殿を建てたが、彼自身はその宮殿の前の粗末な犬小屋に住んでいる」と。
 キルケゴールの言わんとしていることは明らかでしょう。どんなに壮麗な哲学体系も自分が生き、自分が死ぬことに役立たなければ何の意味もないということです。
 そこから彼は言います、「自分に必要なのは、どんなにささやかなものでもいいから、それによってこの自分が生きることができ、それによってこの自分が死ぬことができる真理だ」と。「この自分が」というところに最大のアクセントが置かれるのです。たとえ他のすべての人にとって何の意味もないことであっても、この自分に意味があればそれでいい、と。親鸞の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」がそれに重なります。弥陀の本願が、たとえ他のすべての人にとって何の意味もなくても、この自分がそれによって生き、それによって死ぬことができるかけがえのない真理だから、それでいい、と。
 真理はことばによってあらわされますから、ここで少しことばについて考えてみましょう。ヘーゲルにとっての真理は「世界のあらゆることは絶対精神の弁証法的展開である」ということばであらわされます。親鸞にとっての真理、すなわち弥陀の本願は「若不生者、不取正覚(むまれずんば、正覚をとらじ)」ということばです。あるいはもっと端的に、「そのまま帰っておいで」ということば。ヘーゲルにとっての真理と親鸞にとっての真理は、その内容が異なるのは言うまでもないことですが、そのことばの性質が根本的に異なるのではないかということを考えてみたいのです。

タグ:親鸞を読む
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