SSブログ
『歎異抄』を聞く(その116) ブログトップ

ことば [『歎異抄』を聞く(その116)]

(4)ことば

 「ことばとは何か」という問いに対するもっとも一般的な答えは「コミュニケーションのための道具」でしょう。ことばは人に何かを伝えるためにある。大半のことばはそのようなものと言えます。「ちょっとそこの醤油さしをとって」いうことば、「今日は天気がよくて気持ちがいいね」ということば、「原子力発電はやめなければいけない」ということば、などなど。これらはみな何か(用事、気持ち、考え等々)を人に伝えようとしています。このようなことばは、その何かが相手に伝わった時点でその役目を終え、ほとんどはその場で消えていくでしょう。そのまま消えてはいけないと思うことばは文字で書き残すことになりますが、それもまた誰か(自分も含めて)に伝えるためという目的をもっていることは変わりありませんから、その役目を終えたらお払い箱となります。
 さてしかし、そのようなことばとはまったく異なることばがあります。それは人に何かを伝えるという目的で発せられることばではなく、それ自体が目的であるようなことばです。弥陀の本願とはそのようなことばです。「そのまま帰っておいで」ということばは、それで何かを伝えようとしていることばではありません。お母さんが子どもに「早く帰っておいで」と言うときは、寄り道せずにまっすぐ帰ってくるんだよ、というメッセージを伝えようとしていますが、本願の「帰っておいで」は何かの目的をもって発せられたことばではありません。そのことば自体が目的です。そのことばが伝わること自体が目的であるようなことばです。
 先ほど言いましたように、それで何かを伝えようとすることばは、その何かが伝わったときに用が済みます。お母さんの「早く帰っておいで」ということばは、そこに込められたメッセージが子どもに伝わったとき、その役目を終えます。しかし、それが伝わること自体が目的であるようなことばは、それが伝わってお払い箱になるどころか、伝わってそこにあることに意味があります。本願の「そのまま帰っておいで」ということばは、それが一旦ぼくらにとどきますと、もう消えることはありません。ぼくらのうちにあって、ぼくらをあたためつづけてくれるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その116) ブログトップ