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真理そのものとしてのことば [『歎異抄』を聞く(その117)]

(5)真理そのものとしてのことば

 ことばには「コミュニケーションの手段としてのことば」と「それ自体が目的としてのことば」があることを見てきました。それを真理について言いますと、「真理を伝えることば」と「真理そのものとしてのことば」があるということです。
 ヘーゲルの「世界は絶対精神の弁証法的展開である」ということばは、真理を伝えることばです。ヘーゲルは、世界について、それは絶対精神の弁証法的展開である、という真理をとらえ、それをみんなに伝えようとしているのです。もしみんなにそれが伝わったら、もうそのことばは無用です(逆に、みんなに伝わらず、そっぽを向かれてしまったら、これまた無用となります)。あるいは釈迦の「一切衆生を救わんとする弥陀の本願がある」ということば(それは『無量寿経』に書かれています)も、真理を伝えることばです。もしそれがみんなに伝わったら、その時点で『無量寿経』は無用となるでしょう。しかし釈迦のことばは真理そのものである弥陀の本願とは別もので、弥陀の本願は伝わった時点で無用となるどころか、それから本領が発揮されるのです。
 今度は科学のことばを取り上げてみましょう。例えばニュートンの「二つの物体は互いに引き合っていて、その力はその質量の積に比例し、その距離の二乗に反比例する」という万有引力の法則。これは明らかに「真理を伝えることば」です。ニュートンがこの真理をとらえ、人々に伝えたのです。ニュートンがこの真理を明らかにする(ことばにする)より前から、このことばで表されている真理そのものが存在していたのは言うまでもありません。ニュートンがこの真理を明らかにしたから、この真理が生まれたわけではありません。つまりこういうことです。「真理を伝えることば」においては、真理とそれを伝えることばは別であり、たとえ伝えることばがなくても真理そのものはあるということ。当たり前のことです。
 ところが「真理そのものとしてのことば」では事情がまったく異なります。ことばそのものが真理ですから、ことばがなければ真理はどこにもありません。

タグ:親鸞を読む
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