SSブログ
『歎異抄』を聞く(その119) ブログトップ

もうすでにこちらに [『歎異抄』を聞く(その119)]

(7)もうすでにこちらに

 一方「気づく」はと言いますと、「あることをふと感じる」ことです。上の狩猟する原始人で言いますと、彼は何か動くものがあることにふと気づいたのです。何かに気づいたとき、その何かはどれほど遠くにあろうとも、もう「こちらに」あります。そして、そのときにはその何ものかに「もうすでに」気づいています。知る相手は「向こうに」あるのに対して、気づく相手は「こちらに」あり、知ることは「これから」知るのに対して、気づくことは「もうすでに」気づいているのです。
 このように「知る」と「気づく」とは、はっきりしたコントラストがあります。
 さらに主体としての「わたし」との関係でいいますと、こう言えます。何かを「知る」ときは、まず「わたし」がいて、何かを「知る」ことになります(「わたし」が何かに先行します)が、何かに「気づく」ときは、まず何かがあり、そして「わたし」がそれに「気づく」ことになる(「わたし」は後れをとる)と。あるいはこうも言えます、何かを「知る」とは、「わたし」が何かをゲットすることですが、何かに「気づく」とは、何かが「わたし」をゲットすることだと。
 ここまで来まして「ひとへに親鸞一人がため」に戻ることができます。
 弥陀の本願に遇うということは、「真理そのものとしてのことば」がもうすでにここにあることに気づいたということです。これはもう「ひとへに親鸞一人」の出来事で、弥陀の本願が「ひとへに親鸞一人」をゲットしたのです。親鸞としてはそれ以上に何がいるでしょう。たとえ他のすべての人がそれを否定したとしても、痛くも痒くもありません。「これはもうわたし一人のためですから、他の人がどうであれかまいません」となります。しかし、もしそれが「真理を伝えることば」でしたら、そういうわけにはいきません。それが「ひとへに親鸞一人」にしか通用しないものなら、それは何の価値ももたないということです。でもそれは「真理そのものとしてのことば」ですから、それに気づいた人にだけ存在し、気づいていない人には存在しないのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その119) ブログトップ