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そこばくの業をもちける身にてありけるを [『歎異抄』を聞く(その120)]

(8)そこばくの業をもちける身にてありけるを

 親鸞の述懐は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」のあと、「さればそこばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と続きます。「そのまま帰っておいで」のことばが「そこばくの業をもちける」この身に届いたことのかたじけなさを述べているのです。こんな自分に「帰っておいで」で声をかけてくださるのは何とありがたいことかと。何度も言うようですが、もうそれ以上に何もいらない、それだけでいいというありがたさです。
 「そこばくの業をもちける身にてありける」は機の深信で、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」が法の深信であることはいうまでもありませんが、この二つが「ありける〈を〉」とつなげられていることに注目しましょう。これは逆接か順接か。「そこばくの業をもちける身にてありける」にもかかわらず「たすけんとおぼしめしたちける」のか、それとも「そこばくの業をもちける身にてありける」から「たすけんとおぼしめしたちける」のか。
 辞書を見ますと、接続助詞「を」には逆接と順接、どちらの用法もあります。「御息所はかなき心地に患ひて、まかでなむと(退出しようと)し給ふ〈を〉、暇(いとま)さらに許させ給はず」(源氏)は逆接で、「世の中に物語といふ物のあんなる〈を〉、いかで身ばやと思ひつつ」(更級)は順接です。「そこばくの業をもちける身にてありける〈を〉」は、人情としては逆接にとりたいと思わせます。こんなにたいへんな悪業をもっているのに、たすけようとしてくださるのは何とありがたいことか、と。
 しかし親鸞の真意は順接でしょう。こんなにたいへんな悪業をもっているからこそ「たすけんとおぼしめしたちける」のです。もしも「そこばくの業」をもっているのでなければ、たすける必要もありません、その人自身の力でたすかっていくでしょう。

タグ:親鸞を読む
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