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「親鸞一人がため」と「われらがため」 [『歎異抄』を聞く(その121)]

(9)「親鸞一人がため」と「われらがため」

 「そこばくの業をもちける身にてありけるを」の「を」が順接であることは、第9章の次のことばがはっきり示しています、「よくよく案じみれば、天にをどり、地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と。
 「かくのごときのわれら」とは「天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきこと(往生一定)をよろこばぬ」われらであり、「また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとおころぼそくおぼゆる」われらです。要するに「そこばくの業をもちける」われらであり、そんなわれらのために本願はあるということ。後序には「ひとへに親鸞一人のため」とありますが、第9章では「かくのごときのわれらがため」と言われる。
 「親鸞一人」と「われら」の「あわい」を考えてみたいと思います。
 親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と述懐するとき、親鸞一人がわれらのそこばくの業を一身に担っているような気がします。親鸞が「一切衆生のそこばくの業を自分一人で担おう」と思っているのではないでしょうが、本願が「ひとへに親鸞一人がため」と感じるところで、親鸞一人と一切衆生が一体となり、親鸞一人のそこばくの業は一切衆生のそこばくの業と重なり合っていると感じているのではないかと思うのです。
 ひとへに親鸞一人の業であることは間違いないのですが、でもそれは一切衆生の業とひとつながりになっている。親鸞一人の業であるとともに一切衆生の業でもあると感じていると思うのです。

タグ:親鸞を読む
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