SSブログ
『歎異抄』を聞く(その122) ブログトップ

贖罪思想 [『歎異抄』を聞く(その122)]

(10)贖罪思想

 そこで頭に浮かぶのがキリスト教の贖罪思想です。イエスが十字架にかけられたのは、神の子であるイエスが全人類に代わってその原罪を一身に背負い贖うためであるという驚くべき思想です。これはイエス自身がそう言ったのではなく、イエスの十字架上の死のあと、イエスをキリスト=救世主と信じる人たち、とりわけその中心にいたパウロによって言われるようになったのです。イエスのなかに全人類のありとあらゆる罪が集約され、イエスは全人類の代わりにその罪を背負って十字架にかけられたというこの思想にも、イエスと全人類との一体性が表現されています。
 ただ明らかに違うのは、全人類の原罪を背負うのは特別な存在としてのイエスだけですが、一切衆生の業を背負うのは親鸞だけではないということです。弥陀の五劫思惟の願を「己れ一人がため」と感じるひとり一人が、一切衆生の業を己れ一身に担っていると感じる、己れの業と一切衆生の業は別ではないと感じるのです。弥陀の本願が「己れ一人がため」にあるということは、取りも直さず、己れ一人が一切衆生の業を一身に担っているということなのです。
 第5章の「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」が思い出されます。
 毎日、「ひどいなあ」とため息が出るような事件が次々と報じられます。「よくあんなことができるなあ」と思いながら、犯人の顔が鬼のように見えてきます。でも同時に「同じような状況に置かれたら、同じことをしてしまうかもしれないなあ」とも思うのです。親鸞のことばが頭によみがえります、「一人にもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と。
 そんなとき、己れの業と一切の有情の業は別ものではありません、同じ宿業の中をさまよっていると感じます。唯円は善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」という金言を引用していますが、この「自身」は「一切の有情」とひとつながりであると感じます。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」であると。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その122) ブログトップ