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行為と行為主体 [はじめての『高僧和讃』(その5)]

(5)行為と行為主体

 「このすでに実在する行為主体は、すでに実在する行為をなさない。未だ実在していない行為主体もまた、未だ実在していない行為をなそうとは思わない」という謎めいたことばをぼく流に分かりやすく(?)言い直してみましょう。
 まず「すでに実在している行為主体は」とは、「いまここに行為している人がいる」ということです。つづく「すでに実在する行為をなさない」とは、「その人はもうすでに行為しているのだから、その上にさらに行為するというのはおかしい」ということです。次の「未だ実在していない行為主体もまた」とは「まだ行為をしていない人は」ということで、「未だ実在していない行為をなそうとは思わない」とは「まだ行為していないのだから、実在しない行為をなそうとしているというのはおかしい」ということです。
 ぼくらは、誰かが行為をするということは、まず行為の主体である誰かがいて、そしてその誰かが行為をする、というように受けとめます。行為主体と行為とを別々のものと考えるのです。しかし龍樹は、行為の主体があるということは、もう行為しているということだから、その上にさらに行為があるのはおかしいと言うのです。このようにして「行為主体が有り、それとは別に行為が有る」とする見方(これが有見です)を退けます。
 では龍樹は「行為主体は無く、また行為も無い」(これが無見です)とするのでしょうか。そうではありません。
 同じ第8章第12詩にこうあります、「行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない」。こちらに行為が有り、あちらに行為主体が有る、というのではなく、行為によって(縁って)行為主体があり、行為主体によって(縁って)行為がある、というように互いにつながりあって存在しているということです。

タグ:親鸞を読む
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