SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その6) ブログトップ

縁起 [はじめての『高僧和讃』(その6)]

(6)縁起

 龍樹は、行為も行為主体もあるのは間違いないが、それらが別々に関係なくあるのではなく、つながりの中ではじめて存在すると言っているのです。これはまさしく釈迦が言ったとされる「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じ、これがないとき、かれなく、これが滅することから、かれが滅する」のままです。龍樹が「一切は有でもなく、無でもない」と言うとき(「有無の邪見を破す」とき)、実は釈迦の縁起の法を説いているのです。
 「これ(行為)」と「かれ(行為主体)」は相互に無関係にあるのではなく、「これ」があるから「かれ」があり、「かれ」があるから「これ」があるという関係においてはじめてあるということ。この関係がなければ「これ」も「かれ」もありません。薪が燃えているとき、薪を離れて火があるわけではなく、火を離れて薪があるわけでもありません(『中論』第10章は「火と薪との考察」です)。
 このように見てきますと、『中論』という書は釈迦の縁起の法を真っ当に継承し、縁起の論理を突きつめると「一切は有でもなく、無でもない、空である」となると説いていると言えるでしょう。さてでは次に問題としなければならないのは、この空の思想と弥陀の本願の教えとはどのように交差するのか、ということです。
 次の和讃はそれを詠います。

 「本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける」(第3首)。
 「龍樹菩薩は大乗の、至極の法をときあかし、これぞ歓喜の境地とて、ひとに念仏すすめたり」。

 第1首で「本師龍樹菩薩は 『智度』『十住毘婆沙』等 つくりておほく西をほめ すすめて念仏せしめたり」と詠われていましたが、そこに話が戻ってきます。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その6) ブログトップ