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難行と易行 [はじめての『高僧和讃』(その9)]

(9)難行と易行

 ふたたび『十住毘婆沙論』から引きますと、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行(ぶぎょう)はすなはちくるしく、水道の乗船はすなはちたのしきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるひは勤行精進(ごんぎょうしょうじん)のものあり。あるひは信方便の易行をもて、疾く阿惟越致(あゆいおっち、不退転地)にいたるものあり」とあります。そしてこう言います、「もしひと疾(と)く不退転地にいたらんとおもはば、恭敬(くぎょう、あつく敬う)の心をもて執持して名号を称すべし」と。
 難行と易行についての有名な一節ですが、龍樹自身は「勤行精進」の難行により阿惟越致に至ったにもかかわらず、それとは別に「信方便」の易行があるとして、人々にはこの「疾く不退転地にいたる」道を勧めるのです。龍樹は部派仏教の教えにあきたらない思いをしていたときに大乗経典に出あうことができ、とりわけ『般若経』の厳しい研鑽を通じてようやく空の境地に至ることができたのですが、そこに出てみると、何のことはない、これは『無量寿経』が説いている念仏の喜びと同じところではないかと思ったのに違いありません。
 ここから「勤行精進」の難行によっても「信方便」の易行によっても同じ歓喜地に至ることができるという気づきが生まれたと考えることができます。さあしかし、こう言われましても、まだわだかまりはとれないのではないでしょうか。どうして「諸仏世尊を念ずる」こと(ぐらい)で、空の理を悟ることによって得られる歓喜地に至ることができるのか、それはあまりに虫がよすぎるのではないか、と。ことは「仏を念ずる」とはどういうことかという点に関わります。この念仏が憶念であろうと称名であろうと、言われるようにいかにも易行であり、それで空の理を悟るという難行と同じところにたちどころに至ることができるというのは、いくら何でも言い過ぎではないだろうかという疑義が生じるのです。

タグ:親鸞を読む
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