SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その10) ブログトップ

一幅の絵のように [はじめての『高僧和讃』(その10)]

(10)一幅の絵のように

 さてしかし、この疑義の背景には、こちらにいる「わたし」があちらの「仏」を「念ずる」という常識的な構図があります。ところが龍樹の空の観点からいいますと、「わたし」も「仏」も「念ずる」も「有でもなく、無でもなく、空」です。空の観点からしますと、行為主体としての「わたし」と、行為対象としての「仏」と、行為としての「念ずる」が個々別々にあるのではなく、それぞれがそれぞれに縁ってあるのです。「わたし」は「仏」に縁ってあり、「仏」は「念ずる」に縁ってあり、「念ずる」は「わたし」に縁ってある等々、それぞれがそれぞれと縦横無尽の関係のなかにあるのであり、その関係を離れて「わたし」も「仏」も「念ずる」もありません。
 この三者は切り離しがたく結びついた関係において一幅の絵のようにあると言えばいいでしょうか。
 親鸞は『浄土和讃』「小経和讃」のはじめに「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」と詠っています。これこそ仏を念ずることで仏が「現にまへにましますがごとく」なったさまを描いた一幅の絵そのものです。どこかに阿弥陀仏が超然とおわしまし、その阿弥陀仏をわたしが念じるのではありません。もしそうでしたら、阿弥陀仏はその一幅の絵からはみ出してしまい「現にまへにましますがごとく」とはなりません。そうではなく、その絵のすみずみまで弥陀の本願力が充満していて、それをわたしが全身に感じています。だからその本願力を阿弥陀(無量の光明)と名づけるのです。
 まずもって阿弥陀仏がどこかにおわしまし、しかる後にわたしを摂取してくださるのではありません。もうとうのむかしからわたしを摂取してくださっているのを肌身で感じるから、阿弥陀と名づけたてまつるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その10) ブログトップ