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つねに弥陀を称すべし [はじめての『高僧和讃』(その11)]

(11)つねに弥陀を称すべし

 空の境地と念仏の境地が実は同じであることを見てきました。そこから次の二首が生まれます。

 「本師龍樹菩薩の をしへをつたへきかんひと 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし」(第5首)。
 「龍樹菩薩の教えうけ、いつもこころに弥陀仏の、本願のこえあたためて、南無阿弥陀仏となうべし」。

 「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな 恭敬(くぎょう)の心に執持して 弥陀の名号称すべし」(第6首)
 「不退のくらいすみやかに、えんとおもわんひとはみな、恭敬の心たいせつに、南無阿弥陀仏となうべし」。

 見てきましたように、龍樹は諸仏世尊を念じることを説いてきたのですが、その後で諸仏のなかでとくに阿弥陀仏についてこう言います、「もしひとわれ(阿弥陀仏)を念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定(正定聚、不退転と同じです)にいりて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、この上ない仏の悟り)をう。このゆへにつねに憶念すべし」と。
 ここで阿弥陀仏が「われを」と一人称で出てきますのは、そのすぐ前に、十方の諸仏世尊が「阿弥陀仏の本願を憶念したまふ」とあるからで、諸仏が弥陀を憶念したまうように、弥陀を憶念し称名すれば、そのまま必定にいることができるといっているのです。「正信偈」に「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定(弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即時、必定に入る)」とあるのはここのことです。
 それにつづく偈をみましても、龍樹は『無量寿経』から大きな影響を受けていたことがうかがえます。親鸞はここをとらえて龍樹を浄土教の祖師と見るわけです。

タグ:親鸞を読む
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