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「わたし」は無効に [はじめての『高僧和讃』(その12)]

(12)「わたし」は無効に

 この二首で「つねに弥陀を称すべし」「弥陀の名号称すべし」と言われるとき、そこではもはや「わたし」は無効になっているということを改めて確認しておきたいと思います。すでに述べてきましたように、龍樹の空の観点からしますと、「わたし」が弥陀を称することはありません。「わたし」も「弥陀」も「称する」もみな「有でもなく、無でもなく、空」ですから。
 第5首で「本願こころにかけしめて」とありますが、この「しむ」という助動詞は尊敬でも謙譲でもなく使役でしょう。親鸞は使役の助動詞をよくつかいますが、ここでも「わたし」が本願をこころにかけるのではなく、有無を言わせず本願をこころにかけざるをえないようにさせる力がはたらいていると言っているに違いありません。そしてそれは龍樹の意にぴったり寄り添うものです。龍樹にとって「わたし」が本願をこころにかけることはありません。「わたし」と本願とが個々別々にあるのではなく、「わたし」は本願に縁ってあり、本願は「わたし」に縁ってあるのであり、そのつながりを離れては「わたし」も本願も存在しません。
 第6首の「恭敬(くぎょう)の心」についても同じことが言えます。親鸞は「恭敬」に左訓して「つつしみうやまふ。小乗をば供養といひ、大乗をば恭敬といふ」と教えてくれますが、この供養と恭敬の対比は示唆するところが多いと思います。供養と言いますと、やはり「わたし」が前に出てきますが、恭敬となりますと「わたし」は後に引っ込みます。放浪の俳人・尾崎放哉に「いれものがない、両手でうける」という印象的な句がありますが、恭敬ということばからはこの句に込められた香りと同じものを感じられます。ただただありがたくおしいただくという思い。「弥陀の名号称すべし」とは、ただただ弥陀の大慈悲心をありがたくおしいただくということです。そのとき「わたし」も弥陀もありません、ただ大いなる慈悲のこころが世界を覆っています。

タグ:親鸞を読む
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