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生死の苦海 [はじめての『高僧和讃』(その13)]

(13)生死の苦海

 次の和讃です。

 「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(第7首)。
 「生死の苦海ほとりなし、久遠劫より沈みたる、われらを乗せて渡すふね、弥陀の弘誓のほかになし」。

 先に『十住毘婆沙論』から引用しました「このゆへにつねに(阿弥陀仏を)憶念すべし」につづいて「偈をもて称讃す」とあり、そこに「かの八道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道)のふねに乗じて、よく難度海を度す。みづから度しまたかれを度せん」とあるのがこの和讃のもとになっていると思われます。それにしましても、このうたは生死の苦海と弘誓の船とを一幅の絵のようにみごとに描ききっています。こちらに生死の苦海があり、どこか別のところに弘誓の船があるのではありません。そうではなく生死の苦海のただなかに弘誓の船があるのです。
 龍樹的に言いますと、生死の苦海は弘誓の船に縁ってあり、また弘誓の船は生死の苦海に縁ってあるのであり、このつながりを離れては生死の苦海も弘誓の船もありません。
 ここは生死の苦海であると気づくことと、弘誓の船があると気づくこととは同じことの表裏でしかないということです。ぼくらはともすると、まず自分は生死の苦海に沈んでいて浮かぶ瀬がないという自覚をもち、それによって、そのような凡夫を渡す弘誓の船があることを信じることができると思いがちです。もっと言うと、生死の苦海にいるという自覚がないものには弘誓の船の信心はないと思う。そこから「汝が弥陀の本願を疑うのは、汝自身が生死の苦海にいるという自覚がないからだ」などと言うことになります。ここには弥陀の弘誓を「わたくし」する驕りがあります。

タグ:親鸞を読む
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