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「ぼくは悪い人間です」 [はじめての『高僧和讃』(その14)]

(14)「ぼくは悪い人間です」

 「不寛容社会」というテレビ番組がおもしろかった。ネット社会が進むにつれて、ちょっとした非を咎めてネットが炎上するとか、ヘイトスピーチがまかり通るとか、とにかく自分とは違う人や集団に対して不寛容になる度合いが嵩じているのではないかという問題提起です。番組の最後のところで、誰だったか「人はもともと不寛容なのです」と言っていたのが印象に残りました。「世の中不寛容になって困ったものだ」と嘆く人は、自分はまあ寛容な人間だと思っていることが多いものですが、みんなほんとうは不寛容なのだと自覚しなければならないということです。その上でお互いに寛容さをもつようにするにはどうしたらいいかを考えなければならない、と。
 その通りだと思いながら、不寛容の自覚にも落とし穴があることを忘れてはならないと思いました。「わたしは不寛容な人間です」と言うとき、無意識のうちに、自分がこんなふうに言えるのは実は寛容だからだという思いが潜んではいないかということです。「ぼくは悪い人間です」と言うとき、こんなふうに言えるぼくは実はいい人間なのだと思っているのではないか。心底「悪い人間である」と思い知らされたとき、人は無言になるのではないでしょうか。いま「思い知らされる」と言いましたが、この言い回しにあらわれているように、それは向こうから有無を言わせずに突き付けられるのです。そのとき「もうグーの音も出ない」。
 これが「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば」ということです。われもひともみな「現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」(善導『観経疏』)です。ところがこの生死の苦海が、見方を変えればそのままで弥陀弘誓の船であるということ。「ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」のです。われもひともみな「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」(同)ることができるのです。

タグ:親鸞を読む
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