SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その15) ブログトップ

『大智度論』 [はじめての『高僧和讃』(その15)]

(15)『大智度論』

 龍樹讃の最後の三首を一気に読みましょう。

 「『智度論』にのたまはく 如来は無上法皇なり 菩薩は法臣(ほっしん)としたまひて 尊重(そんじゅう)すべきは世尊なり」(第8首)。
 「『大智度論』におしえては、この上なきは如来なり。菩薩如来につかえては、いつも如来を尊重す」。

 「一切菩薩ののたまはく われら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど」(第9首)。
 「菩薩はみんな口々に、修行の身をば述懐し、これまで長い時間かけ、厳しい修行つみたれど」。

 「恩愛(おんない)はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし」(第10首)。
 「恩愛はなはだたちがたく、生死はなはだつきがたし。南無阿弥陀仏ありてこそ、罪の身のまま救われし」。

 この三首は『大智度論』の一節をもとに詠われています。その一節において、念仏には三つの意味があるとして、まず「第一には仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。たうとくするところ、おもんずるところただ仏世尊なり。このゆへにまさにつねに念仏すべきなり」ということ。そして第二に、もろもろの菩薩が「われ曠劫よりこのかた、…禅定、智恵、無量の行願、仏によりて成ずることをえたり。報恩のためにゆへに、つねに仏にちかづかんことを願ず」ということ、さらに第三に、同じくもろもろの菩薩が「われ因地にして悪知識にあふて般若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫をへて余行を修すといへども、いまだいづることあたはず。のちに一時において善知識のほとりによりしに、われををしへて念仏三昧を行ぜしむ。…まさに解脱することをえしめたり。この大益あるがゆへに願じて仏をはなれず」ということを上げているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
はじめての『高僧和讃』(その15) ブログトップ