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実体の発想 [はじめての『高僧和讃』(その19)]

(2)実体の発想

 龍樹の空の思想は徹底的に実体の発想を拒否するものでした。実体の発想といいますのは、複雑に関係しあっているものを個々の要素に分け、それらの要素がどのように絡まり合っているかを見ようとする発想です。そのとき、それぞれの要素は「他のものに依存せず、それ自体としてあるもの」として捉えられ、それが実体とよばれるわけです。近代科学は基本的にこの発想の上に成り立っていると言えるでしょう。さまざまな物質はそれを構成する要素に分解され、その要素はさらに基本的な要素へと還元されていきます、分子は原子へ、原子はさらに素粒子へと。
 これを要素還元主義あるいは原子論的発想とよぶことができるでしょう。
 この発想は科学だけでなく日常の生活場面においてもごく普通に顔を出します。たとえば誰かが散歩していることを、行為主体としてのある人物がいて、その人が散歩という行為をしているというように分解して考えます。普段はこんなふうに分析することはありません、ただ散歩している人がいると思うだけですが、それをまな板にのせて反省するときには、このように要素還元主義になるのです。どうしてそのような発想になるかと言いますと、その根源はことばの構造にあります。
 ぼくらはものごとを考えるとき、ことばに依らざるをえないのですが(考えるということは、取りも直さず、ことばを組み合わせるということです)、ことばが組み合わされるときに「主語プラス述語」という構造をとります。ベタにつながっている出来事をことばで言い表そうとしますと、そこに、これは主語、これは述語という分断線を入れざるをえないわけです。散歩しているひとの絵をことばにしますと「ある人が散歩している」となり、「ある人」が主語、「散歩している」が述語というように分断されます。
 それがもととなって、散歩している人がいるという出来事が、行為主体としての人物と、散歩するという行為とに分解されるのです。

タグ:親鸞を読む
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