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こころ [はじめての『高僧和讃』(その20)]

(3)こころ

 龍樹はこの要素還元主義の発想にメスを入れたのでした。まず行為主体(散歩人)があり、しかる後に行為(散歩)がある、とするとおかしなことになるではないか、と。まず行為主体があるというなら、主体のなかにすでに行為があるはずだから、その上にさらに行為があるというのは理不尽だし、また、行為主体と行為とが別だとすると、行為のない行為主体があるということになり、これまた理不尽ではないか、と言うのです。何か屁理屈をこねているようにも見られかねませんが、龍樹は行為と行為主体を分断することに異議申し立てをしているのです。
 かくしてこう言われることになります、「行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない」(『中論』第8章「行為と行為主体との考察」)と。すべては縁(関係)によってあるのであり、縁(関係)をはなれて「それ自体としてあるもの」は存在しないということです。龍樹の空の思想はこのようにして実体の発想を退けたのですが、天親の唯識思想も実体の発想を否定するという点ではまったく同じです。先ほど要素還元主義の根っ子は「ことば」の構造にあると言いましたが、さらに言えばことばの根っ子は「こころ」にあります。
 ここに目をつけ、実体の発想の根源を「こころ」のはたらきに探ろうとしたのが唯識と言えるでしょう。
 散歩している人がいるという状況があるとき、それを散歩という行為の主体と、散歩するという行為に分析しましたが、同じ状況について、向こうに散歩している人がいて、こちらにそれを見ている自分がいるというように主客を分離することもあります。普通はただ散歩している人がいると思うだけですが、それを見る主体と見られる客体に分離することで何か事態がよりはっきりしたように感じられるのです。こうして見る主体と見られる客体が「それ自体としてあるもの」とみなされることになりますが、それを「こころ」のはたらきとして解明しようとするのが唯識です。

タグ:親鸞を読む
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