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唯識とは [はじめての『高僧和讃』(その21)]

(4)唯識とは

 『唯識三十頌(じゅ)』の冒頭(第1頌)に、いきなり「仮(け)に由って我・法ありと説く。種種の相、転ずることあり。彼は識の所変に依る」とあります。ここで「我」とは主体としての自分であり、「法」とは客体としてのもろもろの事物のことです。ぼくらはごく普通に、ここに自分(主体)がいて、周りにはいろいろなもの(客体)があると思っています。しかしそれはみな「仮」の姿だと言うのです。そのように見えるだけであって、それらは「こころ(識)」がさまざまに変化している(識の所変)のだと。そして「こころ」のもっとも奥深いところにある阿頼耶識(あらやしき)からはじめ、次いで末那識(まなしき)へ、そしてさらに表層の眼・耳・鼻・舌・身・意の六識へと説き進められるのです。
 こうして「一切唯識のみなり」(第17頌)―すべて「こころ」の展開なのだと言われることになります。
 こんなふうに言われますと、唯識というのは極端な観念論(唯心論)なのかと思ってしまいます。外界の事物と見えるものはみな「こころ」の中の出来事であるとするのを観念論といい、逆にすべては外界の事物(物質)の所産であり、「こころ」(精神)というのもその例外ではないとするのを唯物論といいます。脳生理学者は「こころ」のはたらきというのはみな脳が生みだしていると言うでしょうが、これは無意識のうちに唯物論の立場にたっています。では唯識はこうした唯物論に反対して、すべては「こころ」の中のことであるという観念論に立つのでしょうか。そのように解説してある本もありますが、そうではないと思います。
 そもそも、すべては「こころ」の中にあると言うとき、すでにその外のあることが言外に前提されています。「中」ということばは「外」があってはじめて意味をもつからです(「外」のない「中」とは何でしょう)。

タグ:親鸞を読む
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