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すべて「こころ」に縁って [はじめての『高僧和讃』(その22)]

(5)すべて「こころ」に縁って

 貞慶(じょうけい、興福寺の僧として唯識を学び、法然の専修念仏を停止するよう求める「興福寺奏状」を書いた人です)のことばに「諸法(すべての存在)はみな、心の変作なりと説けども、あたかも影に向って憤喜(怒りと喜び)をなすがごとし」とあります。すべては「こころ」の中であると言っても、怒りにかられたり、喜びがこみ上げるような瞬間は、その怒りの対象や喜びをもたらしてくれたものを紛れもなく「こころ」の外にあると思っているのではないかということです。誰かに棒で殴りかかられたとき、その棒は「こころ」の中にあると思う人がいるでしょうか。
 「一切唯識のみ」と言われますと、つい、すべては「こころ」の中であって外界は存在しない、というようにイメージしてしまいますが、この「中」と「外」という空間的なイメージは百害あって一利なしと言わなければなりません。そこで、すべては「こころ」の中にある、ではなく、すべては「こころ」に縁ってある、と考えるべきで、そうすることが釈迦の縁起の教えにも沿うのではないでしょうか。何ひとつとして「こころ」と無縁にあるものはない、ということです。
 縁起の法として定式化されている「これあるによりてかれあり、これ生ずるによりてかれ生ず」の「これ」を「こころ(識)」に、「かれ」を「あらゆる存在(諸法)」に置き換え、世界を「こころ」とのつながり(縁)において見ようとするのが唯識ではないでしょうか。ぼくらは普通、こちらに「こころ」があり、あちらにさまざまな「もの」があるというように、「こころ」と「もの」を「それ自体としてあるもの(実体)」と考えがちですが、そうではなく、「こころ」があるから「もの」があり、「もの」があるから「こころ」があるというように、両者は互いにつながりあってはじめて存在するということです。
 さてしかし、何ひとつ「こころ」と無縁のものはないということにもさまざまな疑問が頭をもたげるに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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