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『浄土論』 [はじめての『高僧和讃』(その26)]

(9)『浄土論』

 天親讃の2首目に進みます。

 「安養浄土の荘厳(しょうごん)は 唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見なり 究竟(くきょう)せること虚空にして 広大にして辺際なし」(第12首)。
 「弥陀の浄土のありようは、ただ仏のみ知るところ。つまるところは虚空(そら)のよう、その広きこと限りなし」。

 これは『浄土論』の「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際(かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし)」という偈文をもとに詠われています。『浄土論』という書物について簡単に紹介しておきますと、前後二部構成になっていまして、前半が浄土と阿弥陀仏と聖衆とを讃嘆する偈頌(げじゅ)で(これを願生偈といいます)、後半でその偈頌についてみずから解説しています。
 その後半の冒頭に「この願偈はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆゑなり」とあり、この書物の趣旨が読み取れます。ではどのようにして安楽国土に生じて阿弥陀仏を見たてまつればいいかと問い、「もし善男子・善女人、五念門を修し行成就しぬれば、畢竟(ひっきょう)じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得」と答えます。そして五念門とは礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五つであるとして、そのそれぞれを解説していくのです。
 この書物を読んでいて、いつも引っかかるのは、これを書いている天親はどこにいるのか、ということです。冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と言うのですから、まだ安楽国にいるわけではなく、阿弥陀仏を見ているのでもないと思います。それはこれからに期されていると。ところが読んでいるうちに天親はもうすでに安楽国にいるのではないかという気がしてくるのです。これから安楽国に生じたいと願っているのではなく、もうすでに安楽国にいて、その荘厳(すばらしいありよう)を目の当たりにしていると。

タグ:親鸞を読む
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