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「かの世界」 [はじめての『高僧和讃』(その27)]

(10)「かの世界」

 「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」という偈文は、安楽国土のありようを讃嘆するその最初に出てきますが、さてこれは天親がこれから生まれたいと願う世界の相を述べているのでしょうか、それとも天親はもうその世界の相をすでに目の当たりにしているのでしょうか。「かの世界」ということばからは、彼はいま「この世界」にいて、まだ見ぬ「かの世界」を頭に思い浮かべているとなりそうですが、それは唯識の立場からしてどうなるでしょう。
 もういちど唯識の根本を確認しておきますと、「一切は『こころ』に縁ってある」ということでした。「こころ」を離れて「それ自体としてある」ものは何ひとつ存在しない、ということです。「この世界」は「こころ」に縁ってあり、それを離れて「それ自体としてある」わけではありません(「こころ」もまた「この世界」に縁ってあり、それを離れてあるわけではありません)。としますと「かの世界」とはいったい何か。それは「三界(欲界・色界・無色界のこと、要するにこの迷いの世界)の道を勝過」して、どこか別のところにあるとしますと、「こころ」とは無縁に「それ自体としてある」ことになり、唯識の立場からはただの妄念であることにならないでしょうか。
 さて「かの世界」と「この世界」はどういう関係にあると考えるべきか。
 「かの世界」の相は「この世界」の相とはまったく異なり、「究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と言われるのですが、この「無限」ということはわれらの手にはとうてい負えません。物理学者の義兄によりますと、無限大は数学的には定義されても物理的には理解できないから、もし物理量に無限大が出てきたら、その理論形式のどこかに欠陥があると考えるのだそうです。
 「この世界」は有限で、「かの世界」は無限。しかし「かの世界」は「この世界」とは別にあるのではない。とするとどうなるのか。次の和讃はその問いに大事なヒントを与えてくれます。

タグ:親鸞を読む
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