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本願力にあひぬれば [はじめての『高僧和讃』(その28)]

(11)本願力にあひぬれば

 天親讃の3首目です。

 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし」(第13首)。
 「本願力におうたらば、そのまま過ぎるひとはない。功徳の宝みちみちて、煩悩あれどへだてなし」。

 『浄土論』にはこうあります、「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。
 これは阿弥陀仏の素晴らしさを讃嘆するなかに出てくるのですが、まず「本願力にあひぬれば」とは、弥陀の本願のもつ不思議な力に気づくということです。そして「むなしくすぐるひとぞなき」というのは、本願の不思議な力に気づくと、身とこころに何の影響も残さずそのまま通り過ぎることはありえないということです。
 昨年のことですが、「沖縄慰霊の日」の式典で小学6年生の仲間里咲さんが詩を朗読しました。「平和(ふぃーわ)ぬ世界(しけー)どぅ大切(てーしち)」と題された詩で、沖縄では蝉の鳴く声を「戦没者たちの魂のように悲しみを訴えている」と言われるが、「しかし私は思う」と詠います。「戦没者の悲しみを鳴き叫ぶ 蝉の声ではないと 平和を願い鳴き続けている 蝉の声だと 大きな空に向かって飛び 平和の素晴らしさ尊さを 私達に知らせているのだと」。
 弥陀の本願の不思議な力に遇うというのは、この小学生が蝉の声に平和の願いを聞いたのと同じようなことでしょう。「ミーン、ミーン」という蝉の声に「世のなか平和なれ」という願いを聞くように、あるときふと風の音に「若不生者不取正覚(われ人ともに救われん)」の声を聞く。この「あるときふと」というのが「遇う」ということです。こちらから会おうとして会うのとは違い、思いがけずばったり遇う。それは「気づく」ということでもあります。こちらから気づこうとして気づけるものではありません、あるときもう気づいてしまっているのです。

タグ:親鸞を読む
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