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「かの世界」に気づかされる [はじめての『高僧和讃』(その29)]

(12)「かの世界」に気づかされる

 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」につづいて、「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」とありますが、本願力に遇うことにどんな功徳があるというのでしょう。煩悩の濁水が菩提の浄水になるというのでしたら分かりやすいのですが、「煩悩の濁水へだてなし」と言いますから、煩悩の濁水は何も変わらずそのままです。ではいったい何が変わるのか。煩悩の内実はそのまま何も変わらないのですが、それが煩悩であるということがひかりの中に引き出されるのです。
 アダムとイヴは神に見つめられたとき、これまで何とも思わなかった「裸である」という事実にはじめて気づき、恥ずかしいと思った。
 本願力に遇うということは「かの世界」を垣間見ることに他なりませんが、それは「この世界」を「この世界」であると明らかに見ることです。「この世界」は煩悩の世界ですが、そのような世界であることをはっきり思い知るということです。そして煩悩の世界を煩悩の世界と思い知るためには、菩提の世界に気づくことが必要です。しかし「この世界」から「かの世界」への通路はなく、ただ「かの世界」から「この世界」への通路があるだけです。
 「かの世界」は「究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」に戻りますと、無限の世界というのはぼくらの手に負えないことは先ほど述べた通りです。有限の世界から無限の世界への通路はありません。ところがこの手に負えない無限が自分から姿をあらわすことがあるのです。それはどのようにしてかと言いますと、否も応もなく無限に包みこまれていると感じる不思議な経験を通じてです。
 ぼくらは小さく儚い「わたしのいのち」にすぎません。しかしそれは「ほとけのいのち」からやってきて、また「ほとけのいのち」へ還っていくと感じるときがあります。そのとき、ぼくらの小さな「わたしのいのち」は無限の「ほとけのいのち」に包みこまれていると感じます。このようにして無限と遇うことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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