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「ほとけのいのち」 [はじめての『高僧和讃』(その30)]

(13)「ほとけのいのち」

 「ほとけのいのち」からやってきて、また「ほとけのいのち」へ還っていくということは、ぼくらは紛れもなく「この世界」(有限の世界)にいながら、同時に「かの世界」(無限の世界)にもいるということで、これは、よくつかわれる比喩でいいますと、一枚の紙のように、その表は「この世界」ですが、裏は「かの世界」であるということです。ぼくらは紙の表に立っているのですが、でもその足の裏には「かの世界」が広がっている。自分が紙の表に立っていることは、その裏があることに気づいてはじめて分かりますが、それは何度も言いますように、どれほど自分で気づこうとしてもできることではなく、あるとき思いがけなく気づかされるのです。
 さて、ぼくらを包みこむ「ほとけのいのち」があり、ぼくらはそこからやってきて、またそこに還っていくと気づかせてもらえることにどんな功徳(効用)があるでしょう。
 この上ない功徳があるのです、「功徳の宝海みちみちて」います。こんなことばをときどき耳にします、「このままじゃ死んでも死にきれない」と。「さあこれから」というときに大病にかかり、余命いくばくもないと告げられたようなとき、よりにもよってどうして自分が、と思う。しかし、いまこの「わたしのいのち」を生きているが、いずれ「ほとけのいのち」に還っていくのだと気づいていれば、「このままでは死んでも死にきれない」とあわてることはありません。
 たしかに「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」(『歎異抄』第9章)、「なごりおしくおも」うのはやまやまですが、「娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに」、世話になった人たちに「ありがとう」と言いながら、しずかに「ほとけのいのち」へと還っていけます。「わたしのいのち」はどこまでも未完ですが、「ほとけのいのち」としてはすでに完結しているのです。生まれてまもなく亡くなったわが子の「いのち」も、その未完の「いのち」のままで完結しています。

タグ:親鸞を読む
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