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願うということ [はじめての『高僧和讃』(その33)]

(16)願うということ

 次の一首です。

 「天親菩薩は一心に 無碍光に帰命す 本願力に乗ずれば 報土にいたるとのべたまふ」(第16首)。
 「天親菩薩は一心に、無碍光仏に帰命する。本願力にまかせれば、そこが浄土と説きたまう」。

 天親は『浄土論』の冒頭でこう言っていました、「世尊、われ一心に尽十法無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と。このことばからは、ごく自然に、これから先(おそらくいのち終わってから)安楽国に往生したいと願うという意味が浮き上がってきます。「生ぜんと願ず」というのですから、無碍光仏に帰命しているいまは、まだ安楽国にいるわけがないと思います。そもそも何かを願うということは、その何かはまだ存在していないに決まっていると。こうして安楽国に生ずるのは無碍光仏に帰命する「いま」ではなく、「これから先」のことになります。
 しかしほんとうにそうでしょうか。何かを願うというのは、まだそれが実現していないからでしょうか。
 前に「平和(ふぃーわ)ぬ世界(しけー)どぅ大切(てーしち)」という小学生の詩を紹介しましたが、そこで六月の沖縄の空に蝉が「ミーン、ミーン」と鳴くのは平和を願っているのだと詠われていました。蝉が平和を願って鳴くとすれば、まだ平和な世の中になっていないからで、「これから先」平和な世の中になりますようにと願って鳴いているということです。でも、そのように詠っている小学生には平和があるのではないでしょうか。沖縄には広大な米軍基地があり(いや、米軍基地のなかに沖縄はあり)、大勢の米軍兵士と自衛隊員がいるのは間違いありませんが、でも戦争が起こっているわけではない。
 もちろん世界に目を転じれば、イラク、シリア、ウクライナと、いろんなところに戦火はあります。だから「世界が平和に」と願うのはその通りですが、では、もし世界中が平和になった暁にはもう平和を願うことはないのでしょうか。それでも平和を願うことには意味があるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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