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願作仏心と度衆生心 [はじめての『高僧和讃』(その37)]

(20)願作仏心と度衆生心

 こんなふうに言いました、ぼくらは「ほとけのいのち」から生まれてきて、今生でこの小さな個々の「わたしのいのち」をせっせと紡ぎ、やがてまた「ほとけのいのち」へと還っていくと。それで言いますと、成仏するというのは「ほとけのいのち」へと還ることに他なりません。そして今生を生きることは「ほとけのいのち」に還っていく旅であるということです。人が亡くなりますと、「旅立たれました」などと言いますが、生きているうちからすでに旅立っているのです。もうひとつ言いますと、信心(帰命)のときに往生の旅がはじまるのではなく、正確には、旅そのものはもうとっくにはじまっていて、信心のときにそのことにはじめて気づくのです、「あゝ、もう悠久のいのちの旅をつづけているのだ」と。
 次の一首です。

 「願作仏(がんさぶつ)の心はこれ 度衆生(どしゅじょう)のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり」(第18首)。
 「願作仏心なるものは、度衆生心にほかならず、度衆生心というものが、真にまことのこころなり」。

 第17首で帰命のこころは願作仏心であると詠われていましたが、その願作仏心も、ここででてきた度衆生心も『浄土論』のことばではなく、それを注釈する曇鸞の『浄土論註』のことばで、「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり」とあります。願作仏心とは文字通り仏になりたいと願うこころ(「作」はここでは「つくる」ではなく「なる」です)で、度衆生心とは衆生を仏にならせたいと願うこころです。
 曇鸞はこのように願作仏心と度衆生心は別ものではなく、自利はそのまま利他であるというのですが、どうしてそんなことが言えるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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