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願作仏心が度衆生心 [はじめての『高僧和讃』(その38)]

(21)願作仏心が度衆生心

 願作仏心とは平たく言えば「自分が救われることを願う」ということで、度衆生心は「みんなが救われることを願う」ということです。この二つが別ものでないことは、他ならぬ法蔵菩薩の誓願にはっきりあらわれています。「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」とは、「生きとし生けるものみなが救われなければ、わたしも救われません」ということですから、願作仏心がそのまま度衆生心となっています。考えてみますと、救いというものの本質からしてそうならざるをえません。「自分が救われること」は取りも直さず「みんなが救われること」であり、自分は救われたが他の人は救われていないということはないということです。
 「いのちがたすかる」ことでしたら、自分はたすかったが他の人はダメだった、ということはあります。ましてや「もの」でしたら、自分のもの(家や田畑など)はたすかったが、隣の人はダメだったということはいくらでもあります。しかし「(魂が)救われる」こととなりますと、自分は救われたが他の人は救われていないということはありません。隣にいる人が救われていないのに、自分は救われたということはあるでしょうか。そんな救いは間違いなくイカサマです。救いは、それが正真正銘のものでしたら、みんなが救われているか、さもなければ誰一人救われていないか、そのどちらかでしかありません。
 としますと、「自分が救われることを願う」ことのなかに「みんなが救われることを願う」ことが含まれていることになります。
 ところで、天親は礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五念門を上げていましたが(9)、五念〈門〉という言い方から、ここには順序があるような印象をもってしまいます。まず礼拝、次いで讃嘆というように順を踏み、そして最後に回向へと進むというように。そして前の4つが自利で、最後の廻向が利他ですから、まず自利(自分が救われることを願う)があり、その上で利他(みんなが救われることを願う)に進むと何となく思ってしまいます。それは常識になじみやすい発想です。しかしここで自利と利他は別ではないと言われるのですが、このあたりをどう理解すべきでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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